前二つのエントリで触れた、藤原帰一教授の2003年1月30日朝日新聞「論壇時評」の原文を、ある方からいただきました!
以下引用:
00001 2003年01月30日 夕刊 文化 012 02278文字
敵か、味方か 言論を駆逐する「やつら」論 藤原帰一(論壇時評)
9月11日事件の後、ブッシュ大統領は、われわれの側かテロリストの側に立つのか、そのどちらかだ、と述べた。ワシントンによる力の行使の土台には、邪悪な敵と正義の味方に世界を分ける二分法がある。
○冷戦時代のヒステリー
アメリカの外から見ると、この二分法は独断としか映らない。たとえばイギリスの作家ジョン・ル・カレは、タイムズ紙に寄稿した文章で次のように述べる。「9月11日事件後のアメリカは歴史的狂気に陥った。それはマッカーシズムよりもピッグス湾事件よりも悪く、長い目で見ればベトナム戦争よりも破壊的な結果をもたらしかねない、私の覚えている限りでは最悪の狂気だ」(Times1月15日)。アメリカは冷戦時代のヒステリーに戻りつつあるという主張である。
イラクとの戦争に向かうアメリカを前にするとき、ル・カレと同じような感想を持つ人は日本でも多いだろう。だがその日本も、二分法やヒステリーと無縁ではない。拉致問題をめぐる北朝鮮についての議論のなかには、加害者と被害者をスッパリと分ける二分法が見えるからだ。
安倍晋三は、朝日新聞の社説を批判するなかで、「国家的犯罪を犯した立場の国と、被害者の立場のわが国を同列におくという、論理の基本がそもそも間違っている」という(「忘るなかれ 水鳥の羽音に怯<おび>えた平家の轍<てつ>」諸君!2月号)。北朝鮮を追い込むと暴発するという主張については、「“暴発カード”の前に屈しているのと同じ」「愚かな態度」であると断言する。力と正義が結びつくとき、慎重な外交は愚かとしか映らない。
○はねつけ無視する態度
「国家的犯罪を犯した側」と一緒にされかねない人から見れば、これはとてもたまらないだろう。玄月は、「在日」を代弁させられる立場にとまどい、拉致事件については「北朝鮮には一分の理もない」と感じ、「あのような危険な体制はいつまでも生かしておいてはならない」と考え、それでも「北朝鮮は国際社会の中でも、とくに東アジアでは最たる弱者である。したたかな駆け引きも強弁も、生き残るための窮余の策なのだ」と主張する(「本当の意味での弱者のために」論座2月号)。
いまこれを読んで、そんなことあるもんか、核で脅しておいて「窮余の策」とは何だ、と感じた人は多いのではないだろうか。ここで問題なのは、北朝鮮が「弱者」にあたるのかどうかではなく、北朝鮮の側から見るなんてとんでもないと、考える前からはねつけてしまう態度である。玄月には無視することのできない「北朝鮮の視点」が、無視して良い、無視すべき議論として「われわれ」には映っている。
テッサ・モーリス=スズキは、9月11日以後のアメリカと日朝会談以後の日本を並べ、報道の自由が保障されているのに、「国中をナショナリスティックな愛国的パラノイアの噴出」が埋めつくすのはなぜか、と問いかけている(「ヒステリーの政治学」世界2月号)。
アメリカでも日本でも、「われわれ」の側の犠牲者には、人間の顔が与えられた。テロの被害者は「自分たちの兄弟姉妹であり、隣人でもあり得た」人々として「共有すべき哀悼」をよびおこした。日本のメディアは、拉致被害者を迎える「日本の田舎の小さな町の日常」を伝えていた。
これに反して、敵は「野蛮で非理性的で感情の欠如した」嘘(うそ)つきとされてしまう。赤狩りの時代の共産党員と同じように、イラク政府や北朝鮮政府も、信用することのできない「嘘をつく他者」に過ぎないのであり、かれらの主張に耳を傾けることは「役に立たないばかりか、間違いなく危険なこと」になる。こうして、特に政府に規制されなくても、「やつら」に与(くみ)するような言論が駆逐されてゆく。
この二分法の世界に、出口はあるだろうか。モーリス=スズキは、「他者の声を聞くことの重要性」を指摘して結んでいる。でも、そんなこと、ほんとにできるだろうか。
池澤夏樹は、「世界貿易センタービルの被害者一人一人の人生を詳しく辿(たど)る」ニューヨーク・タイムズの記事に疑問を持った。「テロというものを徹底して被害者の立場から、殺された一人ずつの視点から見るという姿勢は大事だ。しかし同じ新聞がアフガニスタンとの戦争のことは抽象的な数字でしか伝えない」。「われわれ」だけを人間として描く報道、「身内の不幸ばかりを強調するメディアは信用できない」と彼はいう。
○花嫁や石工の暮らしが
この感想はありふれたものかもしれない。だが、「だから、自分の目で見ようと思ってぼくはイラクに行った」という行動は、ちっともありふれていない。その池澤の旅行記『イラクの小さな橋を渡って』(写真・本橋成一、光文社)は、これから戦争で殺されるかもしれないイラクの人々の表情を捉(とら)えた作品である。
そこには、「西洋式の白いドレスを着」た花嫁がいる。戦争になろうというのに遺跡修復のため石材を削り続ける石工がいる。「自己形成に最も大事な十年あまりを戦争やら経済制裁やらで無駄にしてしまった」ことを嘆く「A氏」がいる。邪悪なテロリストでも暴政に打ちひしがれた民衆でもない、苦しい中で日々の暮らしをやりくりする、あたりまえの人たちだ。
敵と味方の二分法は、相手を見ないことで成り立っている。他者のなかに人間の顔を発見し、自分たちとの違いが当たり前ではなくなった時、二分法の前提は崩れてしまう。そのとき初めて、正義のよびかけの陰に隠された偏見と独善も自覚されるのだろう。
(東大教授 国際政治)


by 国会速報
変なトラックバックにご注意く…